新聞と広告の向こう側

新聞のつくり方・広告を読み解く視点

そろそろ運動会のビデオ撮影をやめようか

運動会の写真撮影に意味はあるのか

運動会の撮影で失敗

子どもの運動会に行くと、たくさんの親がビデオやカメラを持ってきている。我が子の出番になると、両親のどちらかがカメラ席に向かう。同じように我が家もそうしている。ここ数年、ビデオ撮影は、私の役目。

今年の運動会で、失敗をした。長男の徒競走を撮り逃したのだ。こういうときに限って一等。見事に完走した我が子を見事に撮り逃した私。奥様のご機嫌は、うるわしくない。

 

ビデオカメラに記録する意味

しかし、あえて私は言いたい。運動会で我が子の勇姿をビデオ録画することにどれほどの意味があるのか、と。実際、昨年も一昨年も運動会の様子は撮影してるが、それを再生したのは、運動会が終わった当日だけだ。演技している子どもの姿をその晩、家族でいっしょに見て、それだけだ。

たとえば、遠く離れた祖父母に孫の勇姿を見せてあげる。あるいは、遠くへ出稼ぎに出た父のために、子どもの成長を記録に残す。こうした目的なら、ビデオ撮影も意味があるだろう。

しかし、我が家の場合は、私たちも祖父母も総出で運動会を見にいっているのだ。ビデオに撮る意味はたいしてない。

 

ライブ会場で録画を見る

考えてみると目の前で子どもたちが熱戦を繰り広げているのに、わざわざ見にくいファインダー越しにその姿を眺めるというのも奇特な行動に思える。コンサート会場で舞台を見ずにTV画面を見ているようなものだ。

ビデオに撮れば何度も見れる、将来の良い思い出になる、と奥様はいう。嘘だ。私は、奥様が運動会のビデオを運動会の当日以外に見ているのを見たことがない。そういえば、今のビデオの前の機材には、幼稚園の頃の子どもが撮影されていた。本体もメディアもどこにいってしまったのだろう。

 

記録は思い出を薄めてしまう

ビデオやカメラがなくなればいい。私は、本気でそう思っている。徒競走を撮り損ねた愚痴で言っているのではない。たしかに、ビデオやカメラは「記録」には便利なものだ。

しかし、記録した分だけ、運動会の感動が増えるかどうか、そこが疑わしい。記録することで、今まさに目の前で繰り広げられている熱戦を応援したり、目に焼きつけたりする気持ちが薄まりはしないか、と思うのだ。

思い出と記録は、性質の違うものである。思い出とは、時とともに忘れたり、都合よく書き換えられたりして心の中で美しく変容していくものだ。心に強く印象づけられた記憶は、時を経て美しい思い出に昇華していく。

けれども、ビデオに撮られた映像は、不変の事実の記録にすぎない。もちろんそんな記録でも何度か見るのであれば良い。しかし多くは、撮影して二、三度見るだけだ。ならば無理に撮影などしないで、一度きりの運動会をしっかりと目や胸に焼きつけてはどうか。

 

便利は不便

なければないで済んでいたものが、なければ済まなくなるのだから、便利とは不便なものだ。人は本当に気がついていないのだろうか。次々に出現する最新機器によって、私たちの生活がどれほどつまらなくなっているものか。