新聞と広告の向こう側

新聞のつくり方・広告を読み解く視点

なぜデキる人は「多動力」が低いのか?

最近は、効率や生産性アップの話題をたびたび耳にします。堀江貴文さんの「多動力」も時代の空気を反映してか、よく売れているそうです。

この本、自分の付加価値を高める具体的な方法を各項の最後にワークとしてまとめています。簡潔な文章で書かれているのでとても読みやすいです。

 

Facebookで多動力の質問をした

わたしのFacebookのウォールにも、同書を絶賛する内容のものがいくつか流れてきました。ただ、その内容は、効率や生産性を高める方法を手放しで褒めるものばかり。多動力を「なぜ身につけなければならないのか」について言及する人は皆無でした。

自分のウォールに実は次のような投稿をしました。

 

多動力を読んでいるけれど、いろんな時間を1万時間して100万人に1人の人材になって仕事が舞い込んで、とありますが、それのどこが良いのかわかりません。代わりのきかない貴重な人材になって何がいいのですか?

 

 

貴重な存在になればなるほど、単価は上がり、生産性が向上しより自分の好きなことができるようになると解釈しています。

 

 

 

代わりのきかない貴重な人になれないと生き残れない時代になるんじゃないかと思います。自動運転とかレジ打ち機械とか単純作業は人の仕事を奪われ喰えなくなる時代に。

 

 

お二人の発言は、間違ってはいないと思います。実際、本やウェブで、同様の記述を何度か目にしました。でも、わたしにはいくつか疑問が残ります。

  • 貴重な人の定義は?
  • 生産性向上と好きなことの関係性は?
  • なぜ機械に仕事を奪われると喰えなくなるの?
  • そういう発想は「自己洗脳」では?

 

堀江貴文著 多動力の疑問

貴重な人の定義に疑問

本書で述べられている「貴重な人」は、より多くの他者に価値提供できる人材。他人の効用(幸せに感じる気持ち)を上げられる人材を指しています。これは「経済」視点での貴重さでしかありません。

人間は70億人いて、誰もがオリジナルです。似たようなことはできますが、同じ人は二人いません。そういう意味では、別に何もしなくても、人は生まれたときから代替できない貴重な存在ではないですか。

 

生産性向上と好きなことの関係性

わたしの好きなことは「ゴロゴロすること」です。体力回復には意味があるのかもしれませんが、基本、何も生み出しません。好きなことというのは、非生産的な行為が多いのではないでしょうか。

非生産的なことにたっぷり時間を使うために、それ以外の行為はできるだけ効率よくする考え方は理解できます。

生産性を考えるとき重要なのは「何のために」という目的です。しかし本書では、最終章で「人生に目的なんていらない」と主張します。目的がないのに、生産性をどう評価するのかとも思いますが「適当に」ということでしょうか。

だとしたら、この本に書いてあることは生産性とは関係がない気がしています。自分の好きなこと、少なくともやりたくないことをやらないために、我がままや自分の都合に他人に合わせてもらうアイデア集にも思えます。

 

機械に仕事を奪われると喰えなくなる

機械が仕事をしてくれるのであれば、機械のランニングコストを賄ったうえでの上りは、人間が分け合えばいいのではないでしょうか。別に人間がすべてやる必要はないと思います。機械がやるというのは、多くの場合、生産性が上がるということです。

社会全体の生産性が上がったのに、個別には仕事を奪われて喰えなくなる、というのは、機械社会の問題ではなくて、成果の分配の問題に見えます。

何にも仕事のできない人が、安心して日々の糧を得られる。そのための機械化ではないでしょうか。

それといくら機械が優秀になっても人間の仕事は簡単になくなりません。というのは、将棋界を見れば明白です。人は人が行うことが本能的に好きなのです。藤井四段の連勝に注目するのも同じことです。

将棋は人間が指すより、機械が指す方がずっと強い。そんなことは、みんな知っていて、プロ棋士を応援するのです。

 

多動力は洗脳済の人が欲しくなる

わたしの書いたことは、正しいとは思いません。ただ、これだけ「多動力」が売れるとのは、多くの人にその発想を受け入れる土壌があるということ。これからは、こういう時代になるとか、こういう発想が必要だ、と皆が理解できるから売れるのです。

この本を読むと、洗脳されている人の認知の癖を利用して、新たな洗脳を施しているように見えます。たとえば「洗脳から自由になろう」というのは、「あなたは洗脳されている」という前提を暗に刷り込むのと同じです。

人生を使い切るのに多動力はいる!?

本書の帯にこう書いてあります。「多動力」とは、「自分の人生」を1秒残らず使い切る生き方のことだ、と。

偶然ですが池田晶子さんの残酷人生論の帯に「すべての人間の死因は、生まれたことである」とあります。多動力を発揮しなくても、誰もが人生を使い果たして死んでいくのです。1秒残っていたら生きていますし、他人の人生は生きられません。